何者かになりたかった

何者かになりたかった。でも何者にもなれない。そしてその事実を潔く受け入れられるほど謙虚になれないから、強く、悔しいと思ってしまう。

私はあれやこれや色んなことを考えて、それをツイートしたり、拙いながらも形にするのが好きだ。誰かとこの気持ちを共有したい!という気持ちがあった。そこに褒められたい、凄いと言われたい、という気持ちなんて全くなかった。近い思考を持つ人と出会って、仲良くなって、色んな話をしたかっただけだった。

けれど、こうして何かしら”創作物(て呼べるほどのもんじゃないよ…)”をあげるとなると、大体は評価の目で見られてしまう。そして私は技術があまりないので、当然、そんなに褒められない。私なりに頑張って生み出したものでも、気に入ったものだったとしても、それが他者から見てもそうだとは限らない。他者から見たらきっと失笑ものなのだろう。痛いほどわかっている。
というか「どうせ褒められないのだからふぁぼやRTの数なんて見ない方がマシ(通知を見ない、となると”反応が来ない”ということさえも知ることがない!という自己防衛です)」という考えだ。実際通知欄も見ないし、自分のツイートを振り返ることもしない。数字が怖かった。私はそれほど、自分の生み出すものに自信が無い。そして、客観的に見て粗末だと扱われている現実を受け止めるほど強くもない。

「通知を見てないのだから反応してくれている人を知れるわけがない」のだけれど、やはり私は酷く傷つくのを恐れているので、通知を見れない。きっと自分の中で「私はどうせだめなんだ…」と思い続けて現実からは目を背けているほうが楽。

受け入れてもらえることを期待して、タグをやってみた。タグを使ってフォロワーを募ることは正直あまり得意じゃないのだけれど、出会いを求めていたので頑張ってやってみた。そしてフォロワーが一気に増えた(とはいっても2桁ちょい)。
ここのTLならば皆が創作物を流しているから、私の物もスっと流せると思った。けれど実際は劣等感に苛まれるばかりだった。


各々が素敵なものを載せて仲の良い人達が相互にRTやふぁぼを送りあって、感想を言い合う暖かい空気に満ちていた。楽しそうだった。けれど私はその輪にも入れなかった。(コミュニケーション力が乏しすぎる…)
そして、皆が自分の生みだしたものに誇りを持っていて、それを評価されることに全力を尽くしていた。何よりもその作品を見て!という空気。そりゃあ頑張って作ったものなのだから褒められたいと思うのは当然だ。でも私はそういう空気が苦手だった。

一言で表すのならば、私の重視する価値観とTLの価値観がズレていた。
価値観やTwitterをやる目的は個人によって様々なので仕方ないのだが、私はフォロワーの人格を重視したかった。考え方が近い人を見つけて、できることなら仲良くなって色んな話がしたかった。正直上手いとか下手とかはどうでもよかった。私は自分が好ましいと思った人が生み出したものならなんでも素敵だと思う。けれど、ここのTLでは創作物のクオリティが重視される。とにかく上手くならねばならない。ヘタクソな奴に人権はなく、笑いの的にされるだけ。
そもそも創作というものに実はそこまで熱意もない私は上手くなる為の努力をすることに時間を多く使うことができない。(それ以上に感想や妄想を呟くことが好きなので)下手っぴだけど、下手っぴなままでもまあいいか…という気持ちでいた。でもそれは即ちここのTLで永遠に嘲笑を浴びることを意味する。
私は「いつも長文で何か意味わからないことを呟いているヘタクソな奴」という最悪の存在になってしまった。生憎ユーモアもなく文章が上手いわけでもないので日頃のツイートにも魅力はない。何もかもダメです。

本来、ヘタクソでもユーモアがなくても本人がそれでいいのならそのままでいいのだと思う。
けれど私はそんな自分を惨めだと感じる。何も持ってない自分を受け入れられない。それは、私の中にまだ「誰かに受け入れられるような存在になりたい」という願いがあるからだ。魅力がないのに魅力がある人になりたいと願ってしまう。そしてそれを得る方法もわからないし、努力もできない。我儘でどうしようもない。こんな自分が嫌でたまらない。

こんなことを数ヶ月ずっと考えていたのでTwitterが全く楽しくなくなってしまった。何をするにも劣等感が刺激される。創作物だけではなく、日頃のツイートに関しても気にするようになった。面白いことを言えない。人の気を引くようなことを言えない。私には何も無い。


とりあえず、こんな何も無い自分をちゃんと受け入れて、大きなものを望まずに謙虚に慎ましく生きていけるようになりたいです。頑張ります。
(文章がとっちらかりすぎてますがまあこれくらい色々悩んで考えてたんだなぁってことで…)