ずっと楽しみにしていたイベントが終わってしまい、心の拠り所がなくふわふわと宙をさ迷っているような気分でいる。向かっていくところがないので私はどこをめざして歩いていけばいいんだと途方に暮れています。助けて欲しい。

私はそのライブの現地へ足を運んだのは合計6回(12回中)、ライブを見たのは8回+配信購入で一日中見ていたのでもう十分すぎるほどには楽しんだと言えるだろう。円盤よりも多く見ている気がする。
セットリストは毎回固定であり、変化のある要素はナレーションのみ。そして、こんなことは言いたくないのだが、彼らは生身の人間ではなく予め用意された映像を繰り返し流し続けているので毎回の表情も、歌声も、ダンスも全く同じである。
正直そこまで繰り返して足を運ぶ意味はあるのか?と問われればう〜ん……と口を噤んでしまう。おまけにそこまで席運が良かったわけでもなく半分は後方で配信やライブビューイングの方が全然綺麗に見えていた。

しかし。
それでもできるだけ多く現地に行きたいと思うのは、現場特有の雰囲気が楽しいというのと、私にとって、このジャンルに熱中することが現在最も楽しいことであり心の支えとなっているからだ。同じ映像を繰り返し見ようとも大好きなものは大好きなことに代わりがないので絶対に楽しい。例え姿が見えなくてもその空間にいること、それに触れていることで心は躍り、また安心することができる。私はそんな幸福感と安心感を求めるためにライブ会場に足を運んでいたのだと思う。

これは繰り返し繰り返し言っていることだけれど、私は本当に友達が少なく、こうしてなんどもライブ会場に足を運ぼうともそこで他者と会話をしたり交流する機会も滅多にない。現地に赴く楽しさのひとつとして友人、またはフォロワーとの交流があるのだろうが、そういったものとは無縁なためそんなお楽しみ要素もなく、本当にただ同じ映像、同じライブを楽しみに行くために足を運んでいた。自分一人の世界にずっと閉じこもっていた。

私は(恐らく)多くのリングライトを指につけて、ペンライトも多く振っていたのだけれど、この光が推しの目に留まることは絶対に無い。推しにも勿論、私のような人は特に他の人間の目にも止まることは無い。何のためにアピールをしているのだろうと我ながら不思議に思ってしまうことがあるのだが、全部自分のためである。こうして推しの光を灯すことで私は今この人のことが好きで好きで堪らないんだと、私はこのために生きているのだと、自身の存在する理由を感じている。もうこれは自己愛の一種なのだと思う。私はこうすることでやっと自己の在処を見つけることができて、存在する喜びを感じることが出来る。こんな心境でいるからきっと、推しに対する愛情と自己愛の表出するタイミングが重なってしまうのだろう。これを悪いことと見なすかは人それぞれだし、私は悪いことだとは思えないので、(だって自分を愛せた方が絶対人生楽しいに決まってるので…)自己愛と重ねることを批判するつもりは無い。
だけれども、それが行き過ぎてしまうとその好きな物をダシにして自身をアピールする人間になってしまうのでそこらへんのパワーバランスや主従関係はちゃんとしておきたい。あちらが主、こちらが従。

これは一種の宗教だな、と常日頃から思っているし、偶像崇拝とはまさにこのことである。信仰心によって私の精神は保たれている。縋りつかせてくれてありがとう。

イベントが終わったところでその作品が無くなるわけでもないし推しは存在し続けるのだが、一気に熱が引いてしまい寂しさでいっぱいになっている。
また何か縋りつけるものを見つけなければならない。そうでないと、私の情緒がどんどん崩壊していく。
未来でまた好きなものにちゃんと出会えるように、そしてちゃんと愛せるように、そこで自身の生きてる意味を感じられるように、今はとりあえず頑張って寂しさを乗り越えてみるよ。

オチなし

オワリ