それでも、

大好きな人に対して『大好き』って言うことしかできないのだという事実が、非常に情けなく感じられる。
素敵なところを語りつくせる語彙力も、表現できる画力も、ダイレクトに愛を表すことができる財力も、わたしは何一つ持ち合わせていない。
こんなに大好きなのに、これほど生きる力を貰ってるのに、私はその愛しい人に対してなにもすることができない。

私はツイッターで自分の気持ちを文章に表すことが好きだし、他にも絵を描くことや、文章を書くこともそれなりに好きでいる。
それでも、それは私がただ好きな行為でしかなく、そこに魅力も無く、この湧き上がる愛情や感謝の気持ちを十分に表せる力なんて持ち合わせてない。
それが本当に、本当に悔しくて堪らなくて今年も無力感に涙を流した。

いつも特に何も考えず、楽しい!って気持ちのままにツイッターに文章を流したり絵を描いたりしているんですけれど、「大切な人の誕生日をお祝いするもの」として意識してしまうと、途端に何も出来なくなってしまう。
私の使う言葉も文章も生み出す絵も、そんな大切な人の大切な日をお祝いすることに相応しくない。それほど素敵なものが生み出せない。下手に変なものをお出しするくらいなら、それなら何もしない方が遥かにマシだと思う。だから私は今年も何も出来なかった。ただただ『大好き』って言うことしか出来なかった。
これが決して悪いことじゃないことも、それでも十分だってこともわかってはいるんですけれど、私は何かをしたいという想いはあったので、それを成し遂げられない無力感でいっぱいになった。
そもそも、"何かをしたい"と思うこと自体が私の自己満足でしかないのだけれども。というか、私ができることなんてもともと何も無いんだけれども。相手が実在しているのならまだしも……

私はなにか形に残すことで、目に見える形で表現することで、自分が満足したいだけ。

インターネットを見ているとたくさんの愛のかたちを目にすることが出来る。堪能な語彙力で愛を語る人、素晴らしい画力で感謝の気持ちを表現する人、他にも様々な方法でそれぞれの愛しい人に対する想いを表している人……どんな形であれ、そのすべてが素敵なもので、見ていて幸せな気持ちになる。その反面でそんな素敵な輝きを見れば見るほど何も出来ない自分の愚かさがだんだんと強く感じられてきてしまう。私はこの人達のように愛を表現することが出来ない。そんな劣等感のようなものに押し潰されそうになる。

何も出来ないし、何かをしたとしても、劣等感に押しつぶされる。
でもせめてこの気持ちだけは、尊重したい。
気持ちそのものには上手いも下手もないのだから。

お誕生日おめでとうございました。生まれてきてくれて本当にありがとう。あなたの何もかもが大好きです。