8月15日分/Twitterにいすぎ

最近、Twitterにいすぎである。
ツイート数は元々多い方だが最近群を抜いて多いような気がする。元気になってきて思考の量が増える&楽しめることが増えてきたこと、また大好きな方々の供給が来たことにより、Twitterにぶつけるしかない状態だ。

Twitterにいすぎて困ることって多分なくて、それが幸せだと思っていればそれでいいと思う。
けれども、私の場合は特に得られるものなど何も無いことを長いインターネットとの人生で気づいてしまった。
Twitterで人との交流があるならまだしも、基本的に何の交流もなく、私はただひとりでだらだらと自分の思うことをツイートしているだけである。みんなが楽しく仲間たちと騒いでるパーティー会場の中で、私はもくもくとオードブルを1人で貪りフードファイターをしている、そんな状態が常だ。
それでもTwitterから離れられないのは、とにかく私は自分の思ってることや感情をどこかに発散させたくて仕方がないという事だ。
特に得られるものがなくても、どこかにさえ吐き出すことが出来ればそれだけで十分満足することができる。
他者からの承認ももはや必要とない、そんな境地へ至ってしまった。随分コスパの良い快楽である。

それなのに何故こんな悔やんでいるようなタイトルでnoteを始めたのかと言うと、最近、読書が全然できてないのである。
できてない、というよりも、したいのにできない といった状況。たしかに集中力は回復しているのだけれど、じっとして読書ができるほど集中力が持続しない。その分、Twitterで短い文章を作成して投稿したり、乱雑な落書きを描いたりすることに時間を費やしている。
本を読みたい。豊かな文章に心を震わせたい。語彙を増やしたい。綺麗な日本語の使い方を学びたい。
こうした欲求はあるのに体がついていかない、もしくはTwitterなどの短期的な集中力のみ必要とするものに時間を吸われ、本当にやりたいことが後回しになってしまっているのかもしれない。
『塵も積もれば山となる』という。一つ一つのツイート、これらを積み重ねて総合したらそれなりの読書時間に匹敵するのではないか?
そう思うと背筋がゾッとしてきた。
私は時間の浪費が怖くて仕方ない。常に生き急いでいるので………

心を入れ替えて読書をしたい。
現在、小川洋子さんの『猫を抱いて象を泳ぐ』を途中まで読んでいる。静謐で穏やかな日本語がやはりとても心地よい。この人の言葉から生み出される世界観は、いつも密やかで、なだからで、少し奇妙で、不思議な魅力がある。この人の小説を読んでいる時は謎めいた空間を覗き見しているような、少し背徳感の伴うような快感が私を包み込む。このままどっぷりと浸かっていきたい。無の境地に達し、なんの生産性も無くなってしまったTwitterなんか、置いておいて。

8/15 〆